
アビーは彼の飲み癖が嫌だったので、トムにお酒をやめるよう何度も言っていた。ただ、トムは確かにやめようとしていたのだが、ある一定の期間は良くなるが、その後、何かの拍子で悪い癖がまた始まってしまうのである。
アビーはトムと良い恋人関係を築きたかった。彼女はトムと物事を共感したかったし、コミュニケーションをとりあい、お互い正直でありたかった。二人は長年付き合っていたので、彼女は今までの年数を無駄にしたくなかったのだ。トムに愚痴を言うのは効果的では無かったが、ただ、なすがままにするのも良く無かった。アビーはだんだんストレスがたまってきていた。トムは彼女が求めているような改善を見せなく、アビーは怒りがたまる一方で、もうお手上げ状態だった。
トムは紛れもないアルコール中毒だった。彼は自分でどのくらいお酒を飲むかコントロールがきかなかったし、止めようとしても6ヶ月くらいまでしか続かなく、すぐもとに戻ってしまうのだった。
アビーは自分が出来る事は何でもしているようだった。彼女は自分の立ち位置をはっきり持っており、自分とトムとの間に適切な境界線を作っていた。また、こうしてセラピーにも自分からすすんで来たりしていた。
心理学のフィールド(場)からの視点でいうと、「中毒」というものはある一定の人の「中」にあるものではなく、家族や恋人との関係の「中」に存在するものだ。この場合、アビーは自分ができることは全てしているように見えるが、通常は中毒というものは一人以上の人の原因により成り立っているものだ。アビーは中毒フリー、いわゆる「普通の」恋人関係を望んでいた。
アビーの父親は過剰にコントロールしたがる人で、侮辱的で、いじわるだった。彼女は親からの愛情を十分に受けることができず、誰かに耳を傾けてもらったりなどの必要性も満たされていなかった。そのため、誰かに見てもらいたくて、いつも誰かを助けたり、お手伝いをする「良い子」になった。
これはゲシュタルト心理学で成長、成熟における「創造的調整」と呼ばれているものだ。この「調節」はその時は効果的だったのかもしれないが、大人になるにつれ、彼女の首をしめていくだけだった。
彼女はこのような過去からの心境があったため、看護の勉強をし、他の人を助けたいと思ったのだそうだ。そして、今まさにそのようにトムも「助けよう」としていた。
アビーは心を探っていく中で、自分の人への好意は誰かにギフトをあげるような気持ちだということに気づいた。それは、他の人・男性に何かを「差し出す」ことにより、彼女は自分が役に立っていて、存在を求められていて、認められていて、必要だとされていると感じたからだ。
実際、トムとの恋人関係にこの心理が働いていた。彼はアビーを必要としており、彼女が怒って距離をおくと、トムはとても悲しくなった。彼女はトムが悲しい顔をしているのに耐えられなかったので、彼をなだめようとするのだ。
ここで一つ重要な気づきは、彼女の好意は人を操るために利用されているものである、ということだった。それは、彼女の心の奥底に「私があなたに何かを差し上げたら、あなたは私を必要とし、私のそばを離れないわ」という心理が働いていたからだ。
このことに気づくことは、アビーにとって重要なターニングポイントだった。アビーはトムの中毒だけでなく、自分の中で働いている「操り」も見出すことができた。それは、ゲシュタルト法で「proflexion」と呼ばれるもので、自分が何かをすることにより、当たり前のように相手にも何かを期待する、という心理だ。
これは「歪められた境界線」の例であり、何かを与えているように見えるが、実際はその裏に隠れた動機があり、本当は無条件の愛ではなく、条件付きの愛であるものだ。
彼女は今まで相手に何かを期待しながら与えていたことに気づいていなかったので、この「気づき」は非常な大きなものだった。これで、トムの中毒だけでなく、アビー自身にも問題があるということに気づいた。
ゲシュタルト法はクライアントが自分で「気づく」ように導いている。それは、今現在起こっていることだけでなく、日常の中で隠れて現れる行動など、複雑に形成されているクライアントのフィールド(過去、家族構成、人間関係)を探ることでもあるのだ。
このような心に潜んでいるものを明らかにすることにより、クライアントが過去どのような事があったかに関わらず、現在の自分の行動に「気づき」、ゲシュタルト的な言葉でいうと「自分の行動に責任をとる」ことができるのだ。そして、クライアントは自由を得るのだ。自分が人を操ろうとしている行動に気づくことはそれに対して何かをしよう、という思いを与える。しかし、相手が何かにはまっていたり中毒だったりすることしか目に入らなかったら、それに対する反発が出てくるだけだ。
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