
しばらくして、彼女はその「ストーリー」に関してわたしに質問を投げかけてきたりしたが、やはり、わたしは居心地が悪かった。彼女は色々と質問をしたかったようだが、ただわたしを自分の今の状況を解決する専門家にしたてようとしているようだった。
しかし、彼女の希望とは反対に、わたしは自分の考えは何一つ述べなかった。わたしは彼女と対話をし、彼女の質問には答えることはしなかったが、逆にそれを意見文として言い換えるように言った。これはゲシュタルト法ではよく利用される方法だ。それは、質問をするということは責任回避であったり、人との関係の中であらわになるものであるからだ。「意見文」に言い換えることで、自分がどのような者であるのかに対して責任を持ち、自分がどう感じて、どうして欲しいのかをもっとはっきりと伝えることができる。
わたしが何も言わなかったのは、自分の中でも様々な感情が行き来していて、落ち着いてそれが何であるかをその場にいてもっと理解したかったからだ。わたしは自分の気持ちを受け止め、どうしてこのように自分が反応しているのかを理解しようとした。
アナベルが話す度に何度も同じような感情が引き起こされ、それは彼女に質問を意見文へ変える様にと言った時も同じだった。しかしこうしないと彼女の悪循環を止めることができなかったし、わたしは彼女がわたしに差し出していた「偉大なる知恵のある人」という役割を受け入れるようなことはしたくなかった。
しかしこうすることにより彼女の興味をひくことができた。わたしが自分の感情を表す事なく、彼女に自分の体験を振り返らせるよう促したことにより、アナベルは自分の感情に少しずつ向き合いはじめることができた。
わたしが彼女と信頼性について話していると彼女は急に「正直に言っていただきたいのですが、わたしのことをどう思っていますか?」
この質問は私たちの関係を深めることのできる手段であったので、わたしは息をつき、慎重にことをすすめることにした。とても繊細で慎重を要する質問であったが、今までの中でもっともオープンであり彼女がわたしを信頼していることを示しているものであったので、わたしはよい質問であると思った。
わたしは自分の気持ちをしばらく振り返る時間を持つことができていたため、直接彼女に対してではなく、自分の(彼女との対話の中での)体験に関して話すことができた。
そこで、わたしはこう言った。「あなたが話す度に、あなたの見方になってほしい、と言われているような気がします。わたしはあなたに同意し、あなたがどのように家族を見ているかやあなたがどのように家族から扱われていたかということに賛成して同意したい。でも、わたしはあなたのことを拒否したくもなければ、あなたのチームに加わりたくもないので、居心地がとても悪い。」
こうすることにより、わたしは自分の体験を正直に述べると同時に、彼女に応答する余地を与えることができた。こう答えることは彼女を侮辱する言葉ではなかったし、重要なフィードバックでもあった。アナベルはにこっと笑い、言った。「ありがとうございます。今まで他の人もわたしに同じようなことを言っていたのですが、あなたほどはっきり言ってくれた人はいませんでした。今言われたことがどのようなことか、わたしも自分で理解しています。わたしは無意識のうちに、他の人を自分の見方につけようとしていると自分でも感じているのです。」
そして、私たちは今まで以上にお互い素直になり話すことができた。わたしは「敵・見方を作る」のは楽しいことでもあり得ると言い、子供達もよく遊びのなかで見方や敵を作って遊んでいることを彼女に気づかせた。わたしたちは他にも色々なことを話し合い、アナベルの緊張が和らいでくるのが見えた。そして、わたし自身もやわらいできたのだった。わたしは自分の心の体験を言葉に出すことにより、心の状態が変わってきたし、彼女は「誰かに見てもらう」ことを体験することができた。
ゲシュタルト法はこのような "I-Thou"(わたしとあなた)の体験を求めていて、クライアントの人間関係を深める基礎である。
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