
その日、わたしはグループセラピーで遊びをつかいながら、自分の中の「攻撃性」を見つけ出して行くことをクライアントに教えようとしていた。参加者達はペアになり向き合って、手のひらを合わせてお互い押し合った。ルールは簡単で、相手と同じ力で押すということだった。そのため、より力の強い者は自分の力を加減する必要があった。
トレバーはグループの中でも一番力が強い人だった。彼がこのアクティビティをしている最中、つい夢中になり相手を強くおしてしまい、相手の男性は後ろにひっくり返ってしまった。
彼は相手に勝とうとして強く押してしまったので、わたしはこのアクティビティの目的は「競争」ではなく、「相手と同じ立場にたって向き合う」ことだとトレバーに教えた。
すると彼は悲しそうな顔をしてしまった。それはわたしが彼の存在感があまりにも強すぎて他の人々と同じ立場に立って話すのは難しいのではと指摘したため、トレバーが今まで心の奥底にしまっていた感情がいっきに出て来てしまったためだった。
わたしがトレバーに今どのようなことを感じているか聞くと、「腕には怒り、心には悲しみ」と彼は答えた。
そこでわたしはあるアクティビティを提案した。私たちは二人ともたって、わたしは彼と手のひらをあわせ、彼に力強く押しながら腕の中にある怒りを感じ取るようにといった。そして今度は押すのをやめて、自分の心の中の悲しみを感じ取るようにといい、わたしは彼を抱きしめてあげた。そして一連の動作を何回か繰り返した。
このアクティビティをすることにより、彼は怒りを発することと愛されること、両方を体験することができた。同じ動作を繰り返して行くなかで彼は「パパ」といった。それでわたしは彼の両極端な感情は父親との関係からきているものだったということが分かった。しかし、今はその過去を深くほりさげていく必要はなく、ただ今いる中彼との向き合いというものが必要だったのだ。
トレバーは「わたしはずっと師となる人を探していたのです」と言った。なので、わたしは彼が本当に求めているものは誰かに自分を見てもらうことなのだとこたえた。こうすることにより、彼がわたしに一方的にあまえるのではなく、彼自身も物事を変えていくことができるというのを教えたかった。
そして私たちは抱き合い、彼はわたしを地面から持ち上げた。わたしも彼を持ち上げると彼はわたしを抱え、子供の遊びのように何回かわたしを持ち上げたままぐるぐるとまわった。わたしも彼がしたように、同じようにしてあげた。
こうした後、かれは心がとても落ち着いたようだ。おそらく、それはやっと彼の必要としていた愛情をうけとることができたからだ。
もちろん、わたしのように彼を持ち上げたりするのは必ずしも誰もができることではないが、どのような方法を使ったとしても、クライアントが必要としている立場で向き合うことは可能である。そして、この「向き合う」ということこそ、ゲシュタルト法の根本にあるものなのです。