
彼女はグループセラピーに来ても「自分が求めているものはここにはない」と言い、「もう全部前に聞いたことだ」や「私はもう知っているわ」などと言った。
これらの言葉以外にも彼女の行動は子供が駄々をこねているようだった。彼女に自分の年齢をいくつに感じるかと聞くと、5歳、と彼女は言った。
「年齢を逆戻り」した人へは相手の精神年齢に合わせセラピーを行うこともあるが、そのような問題は長期的なセラピーを必要としており、必ずしもクライアントにあてはまるとは限らない。
なので私はダイアンの「現在の自分」を取り扱うことにした。「現在」に焦点をおくことにより、物事を今の状況を考えながら判断していき、しっかりと根付いた現実性を保つことができる。私がそのように判断した理由は、ダイアンが「小さい女の子」視点に凝り固まっており、「子供」を相手に話かけたとしてもいつまでたってもその状態に抜け出せず、セラピーがうまく進まない可能性があると思ったからだ。
そこで、彼女に「自分の声に耳を傾け、私と一緒に今のこの場所に来よう」と呼びかけた。私は彼女が26歳であり、大人の女性の体を持っていて、他の人たちと同じ大人であることを言った。彼女はまたもや「いやいや」をしたが、私は今彼女の前におかれている選択肢に目を向けさせ、再度いま現在あるこの場所に私と共に来るよう促した。
彼女は猫背になっていたので私が背筋を伸ばしちゃんと座るように言い、自分を隠さず胸をはるように言うと、彼女は私の言った通りにし、すぐに見た目もさきほどと見違えて良くなった。私は彼女に自分の体の女性である部分—胎盤や子宮など--に息を吹き込むようにと言い、自分が大人の女性であることを体の奥深くから感じとり、周りにいる他の女性を見ながらみな、大人の女性でありその事実によってつながっていることを感じ取るよう促した。
彼女は「難しすぎてできない」と言ったが、私は彼女が今このことをすることによりだんだん変化してきているから大丈夫だ、と彼女を励ました。
それでも彼女は大人の自分をなかなか受け入れることができなかったようだ。私は彼女にもう一度自分の体に思いを集中するように促した。その時だった。彼女は自分には4ヶ月も生理が来ていないことを打ち明けたのだった。それは医学的な理由ではなく、付き合っていた男性と別れるという辛い思いを体験した後からだった。しかしこれははじめてではなく、以前も起こったことだったそうだ。私は彼女の女性である自分は内なるものではなく、外因的要因によって左右されているようだと言うと、彼女は耳を傾けうなずいた。
彼女が私の言葉に心を開いてくれたので、私は彼女の今の状況をはっきりと伝えた。それは、彼女が小さい子供のまま成長を拒んでおり、大人の女性になり、他人の意見に左右されない強くたくましい女性になることを拒んでいることだ、と言った。私は彼女にはっきりと、無力な小さい女の子ではなく、大人の女性としておおいに成長を遂げる彼女を見たいし、そのようになれるよう助けたいと言った。そして、彼女に自分の体に語りかけるよう促した。それは、自分は大人の女性として生きるのだ、ということと大人の女性であること、すなわち女性としての受胎能力と血がからだの中で流れていくことを受け入れ、他人がどう思おうとそれが自分を卑下させることは絶対にしないということ。
私は彼女がもっと多くのことを私から聞くよりも、今聞いて感じ取ったことに思いを馳せて欲しかったので、セラピーを終わらせることにした。彼女のこれからの課題は人に頼るよりも、自分で物事を探って行くということだったからだ。
私は彼女に宿題を出した。それは、携帯のアプリで月の満ち欠けを毎日見ながら自分の体に話しかけ、自分が大人の女性であるということを認識し受け止めることだった。
今回取り扱ったセラピーは「典型的」なゲシュタルト法だった。人間関係やその中で感じるものを実際体験する、という現代的なスタイルのほうが私には合っているが、大人としての決断性、現在あるものに対しての責任と自活力を重点としクライアントを問題に直面させる方法もたまには用いる必要がある。問題に真っ正面から向き合うconfrontative styleは時と場合を間違えたり、やりすぎてしまうこともあるので注意が必要だが、クライアントがこのような言葉を受け入れる準備が出来ている場合はクライアントにとっては警告として必要な場合もある。
長期心理療法では「小さい女の子」でありたい彼女と向き合いそれを探って行く余裕もある。このように「子供のまま」でいることは必ずしも悪い事ではなく時として必要な場合でもあり、ゲシュタルト法ではこれを「想像的調節」と呼んでいる。そうしてこのように「抜け出せない」クライアントと「共に」語り合い、その状態をあるがままで取り扱うことも大切だと私たちは考えている。人々は、誰かに無理矢理抜け出そうとさせられるよりも、私たちの支えと理解、そして「共に」その状況を抜け出すことを求めているのだと私は思う。
ただ、相手を尊重しながら問題と向き合わせることには時と場合を十分にわきまえる必要があり、セラピストとして自分のモチベーションや考え方に深く注意しないといけないことも私は理解している。それは、自分はなぜ相手を問題に直面させようとしているのか、また私自身にとって直面しないといけない問題は何であるかを考える必要があるからだ。これらの考えはクライアントとの相互関係の中で持ち出していくことも可能なのである。それはゲシュタルト法は一方的な相手への思いやりでもなく、ただクライアントに問題直面させることでもなく、本当の意味でクライアントを理解し彼らが変えられる助けをすることだからだ。